皆さんこんにちは。このページを見に来てくれたって事は、ボクにちょっと興味を持ってくれたって事ですかね?
どうも初めまして!この『やってブログ。』を運営・主宰してます聖一朗(@sei01row)デス!
ちなみに“聖一朗”って名前はハンドルネームッス!!本名は今の所→内緒って事で笑
このプロフィールのイラスト、ボクの奥様が書いてます。
ボクの事を知ってる人が見るとね、ソックリだって皆言うんですよ。
実際にこんな感じです・・・。
普通のアラフィフです。よろしくお願いします!!
『やってブログ。』について
ボクのブログは雑記ブログです。
『やってブログ。』のタイトルの由来は・・・
せっかくブログを始めるなら
ボクが今まで『やってきた』楽しかった事や
皆に伝えたいと思った事、
それにこれから『やってみて』良かったと思った事なんかを紹介して、
それをよんでくれた方が『やってみたい!』と思ってくれたり、
よーし『やってやろう!』っていう活力になったらいいなぁ
と思って名付けたんですよ。我ながらいいタイトルだと思ってます(笑)
書きたい事や伝えたい事をブログで表現して、それが収入に繋がったら素敵じゃないですか?
ボクの『やってブログ。』では、そんな事を目指してます!
聖一朗ものがたり~第1章~
生まれたのは1972年7月。
夏に生まれたからなのか、寒いのは苦手です。
「関係ある?」って思うかもしれませんが、ボクの奥様も夏生まれなので寒いのが苦手なんですよ。
きっと何か因果関係があるんじゃないですかね?
一応生まれた病院は東京都内だったみたいですが、それ以降はずっと千葉県人です。
千葉って海に面してるじゃないですか?だから、海があるのが当たり前なんですよね。
海がある県民の方、そうじゃないですか??
ずっと千葉に住んでるからか、千葉ってホントにいい所だと思います。
海あり山あり、空港ありディズニーランドあり。そんな都道府県は他にないですよね?(ディズニーランドだけやん!!)
・・・まぁとにかく、千葉が好きなのでブログでも『おすすめ千葉スポット』を紹介していきますね!
小学校・中学校は地元の普通の学校でした。・・・中学校はちょっとヤンキー率が高めだったかな?
中学校の時、バイクに興味を持ったんですよ。でも親が厳しい人で、免許は取らせてもらえなかったんですね。
親の力って大きいですよ・・・この頃は。
高校は地元をちょっとだけ離れて幕張まで通いました。電車乗って通いたかったんですよ。
高校は幕張3校って言われてた、同じ敷地内に高校が3つ立ってる学校でした。
珍しいですよね?当時は子供が多かったんですよ。
3校同じ敷地内だから、体育祭も文化祭も同じ日にやってましたね。バラバラだけど。3校くっついてる割にはそれぞれの交流ってあんまりなかったような気がします。
ちなみに中学・高校は陸上競技をやってました。・・・って言ってもやってただけ。目立った成績は残せなかったです。
でもね、運動は好きだったんですよ。基礎体力はあった方だと思います。運動能力テストは学校で2番目だったし。
勉強はキライで、一応高校のレベルは中の中だったんですけど、校内の順位はおケツから数えた方が早かったですね。
だから大学に進学してまで勉強したくないって思っちゃって・・・今考えたらバカだなぁって思いますよ、ホントに。
それでも就職には抵抗があったので、人よりちょっと良かった体育の専門学校に進学しました。
良く調べたか調べなかったかは、今となっては覚えてないんですけど卒業しても何も資格らしい資格は取れなかったんですよね。
ホント、親に申し訳ないと思ってます。そういうのって大人になってから分かるんですよね・・・。
目次
聖一朗ものがたり~第2章~
無事に専門学校を卒業し、就職したのが幼稚園や保育園に体育の講師を派遣している会社。
『派遣』と言ってもいわゆる派遣社員ではなくて、雇用形態は正社員でしたよ。『体育の講師』なので教員免許や保育士資格といったものが無くても出来る仕事でした。
この仕事は楽しかったですね~。ボク子供が大好きだったし運動も好き!だから我ながらピッタリの仕事だったと思います。
でもね、仕事以外の所がとてもツラかったんです。いわゆる体育会系な会社だったので、飲み会が地獄のようでした。
ボク、基本的にお酒が飲めないんですよ。でも飲まない訳にもいかずに無理矢理に近い形で飲んじゃってました(飲まされちゃってました)
ホントに辛かったのは、子供の夏休みや冬休みといった長期休暇の時は『キャンプ教室』や『スキー教室』と言った野外教室があったんですね。
この時はもう夜通し飲み会なんですよ。泊まりなので逃げる事も出来ません。
先輩は有名体育大学出身者ばかりで、バカみたいに飲みますからね。コワイコワイ・・・。
本当に仕事は楽しかったんですけど、3年で退職しました。
大きな理由としては飲み会だけじゃなくて、一回プールで子供が溺れさせちゃった事があったんです。
その子は救急車で運ばれただけで大事には至らなかったんですけど、その時に改めて『人の命を預かっている』という事に気づいたんです。そういう仕事なんだって。
まだ若かったですし「そこまで責任持てないよ」って思ったんですよね。だから辞める事にしました。
奥様との出会いはこの仕事をしている時。奥様は派遣されて行っていた幼稚園で先生をしてました。
可愛かったですよ、ホントに。可愛かったと書くと『今は?(怒り)』と突っ込まれそうですけどね笑
ボクなんか相手にされないと思ってましたよ。
可愛いだけじゃなくて、元気いっぱいでハツラツとしてて、本当に魅力的な女性でした。
きっかけは・・・確か奥様がたまたまその日に車で幼稚園に来てまして、ちょうど帰る時にボクが会社に戻るタイミングと合ったんですよ。
それで確か冗談で「乗っけてってくださいよ~」なんて言ったら、ホントに乗せて会社まで送ってくれたんですよ。
そうそう、ちなみに奥様は1歳上なので、まぁ先輩ですよ。先輩が送ってくれたワケですね。
その車中で「お礼に今度ドライブでも行きましょうか?」ってこれも冗談で誘ってみたんです。ダメもとです。ダメもと。
そしたらね、後日お電話を頂いたんです。何だろう?と思ったら「ドライブはいつ行くの?」って笑
急展開にちょっとついていけなくなりそうでした。
それでその後はあれよあれよと付き合う事になったんです。ボクとしては人生で最高のラッキーだったのかも。
そしてボクはこの会社を退職。次が決まってたわけじゃないから無職です。
とりあえず何も決まってなかったので、ガソリンスタンドでアルバイトを始めました。
当時は車も好きでしたし、自分より若い10代の連中とワイワイやりながらのバイトは楽しかったですね~~。
このままこの会社に就職しちゃうのもいいかな~なんで思ってた時、付き合ってた奥様に強烈な一言を浴びせられます。
それは「アンタ、私と結婚する気ないの!?する気があるなら、まともに就職しなさいよ!!」という言葉でした。
そりゃそうですよね・・・。24歳にもなってましたし、奥様は25歳。男が定職に就いておらずだったら、次を探したくもなるはずです。ボクはそれから本格的に就職活動を開始する事になります。
聖一朗ものがたり~第三章~
就職した会社は、今も務めている求人広告の会社。
営業職なんてやった事はありませんでしたが、他にスキルがあったわけでもなかったですしね。
それにこの会社を選んだ理由は「求人を扱ってるし、そのうちいい仕事があるかもしれない。あったらすぐに転職しよう」という気持ちからでした。
まぁ、他にもいろいろ受けたんですけど、受かったのがここしかなかったというのも大きな理由です。
何はともあれ、ちゃんと就職も出来たわけで1年後にプロポーズ。めでたく奥様と結ばれたワケですね。1998年でした。
ボクの両親は(というより父は)かなり古い人間でしたので、長男だったボクには家を守る義務がある!だから将来的には同居してもらうという考えでした。
普通は嫌がりますよね?奥様も嫌だったと思います。
でも、奥様は「近い将来子供が産まれて、自分たちの生活をしてから同居をすると、きっと子供はおじいちゃん達に懐かない。だから将来同居するというなら、最初からします」と結婚と同時にボクの家に住んでくれました。
ボクはそんな奥様の考えをスゴいと思ったし、今でも尊敬しています。
結婚した翌年、息子が生まれました。ボクが26歳、奥様が27歳の時です。
幼稚園で働くくらいですから、二人とも子供は大好きでした。
結婚する前から「子供は3人は欲しいね~」なんて話していましたが、それが現実になることはありませんでした。
聖一朗ものがたり~第四章~
息子が生まれてから奥様は何度か妊娠しました。
でも残念ながら流産してしまうという事が数回続いてしまったんです。
女性にとって流産をするという事がどれだけ辛い出来事なのか 、当時のボクには分かりませんでした。
だから流産した後にも「大丈夫だよ。またチャンスがあるよ」などという事を言っていたと思います。
今思えば、流産の原因だってボクの両親との同居のストレスもあったかもしれないのに…。
そして息子が小学1年生になった時、また奥様は妊娠しました。
今度は順調に育ってくれて、安定期にも入っていきました。
奥様も安心していたと思います。それに事前に女の子と聞いていたので、息子の後に女の子を授かることが出来たのも奥様にとって良い事でした。
でも奥様のお腹の中で8ヶ月まで育ったその子は、その後生まれてくる事はありませんでした。
『周産期心筋症』という病気をご存じでしょうか?
日本人では約2万人に1人という発症率の極めて稀な病気。奥様は突然その病気に襲われてしまったのです。
最近になりこのような病名だったことを知りましたが、当時は『原因不明』で医者に「この状態からの生存率は10%以下です」と言われたのを今でも覚えています。
奥様は一度“心停止”して人工心肺をつけながら約10日間、生死の境をさまよいました。
現在は右足の軽い麻痺などの後遺症が残っているものの、この世界に生を残してくれたのはお腹の中の赤ちゃんのおかげだったのかもしれません。
ボクは奥様に、人生で誰も経験しないだろうと思うような、そんな辛くて苦しい体験をさせてしまったのです。
年月が経ち、今はまだ病院に通っているものの、気丈に明るく振る舞っている彼女を見て、きっと誰もそんな経験をしてきたなんて思う人はいないでしょう。
ボクは奥様を尊敬し、好きで好きでたまらないのは、目の前から消えてしまいそうになった彼女が、生きて今でもボクのそばにいてくれているからなんだと思います。
これから二人ともどんどん歳を取っていきます。一緒に歳を取って行ける幸せを感じながら、いつまでも楽しく過ごしていきたい。それが今の願いです。
もしかしたらこの『やってブログ。』が収入を生んでくれれば、会社を辞めて奥様をずっと一緒にいられるかも!
そんな事を目論見ながら日々更新していきます!(毎日は厳しいけど…)
共感していただける方!是非協力をしていただけると嬉しいです笑